【 第3章 】
「はぁ……何してんだろ」
洗面の鏡の前で、もう一度、深く息をつく。
分厚いドアが、店内の話し声や音楽を遠ざけてくれていた。
けれど、ここに居られる時間は、そう長くない。
あまり長居をしても、戻ったときに気まずくなるだけだ。
長谷部さん、気を悪くしてないかな。
橋戸さんにも……ちゃんと、大丈夫って言っておかないと。
キュッ、と蛇口を閉める音が静けさに響く。
ゆっくりと溜まった水面に、ひと粒、ポチャンと雫が落ちる。
「一瀬くん……もう、覚えてないよね」
ぽつりと、誰にも届かない声。
思い出の中にいたはずの彼は、目の前に“現実の姿”でいて。
しかも、あんなに人の輪に馴染んでいた。
きっと、橋戸さんみたいな、可愛くて話しやすい女の子の方が、彼には似合ってる。
あんな子供じみた約束なんかじゃ、届かない。
彼はもう、ずっと遠くにいる。私なんかとは、次元が違う。
静かに、音を立てないようにドアを引いた。
廊下に出ると、遠くからホールの音楽と、にぎやかな笑い声が聞こえてくる。
――ちゃんと、あの輪に戻らないと。
そう思いながら、廊下を歩く。
曲がり角にさしかかった、そのとき。
「……ずいぶん遅かったな」
その声に、心臓が跳ねた。
壁にもたれかかっていたのは――
昔なじみの彼。
一瀬 蒼真だった。
「い、一瀬くん……?」
その後の言葉を探しているうちに、蒼真くんはこちらへ近づいてきた。
思い出の中とは全然違う、背の高さ。
もう、見上げないと視線を合わせられないんだ。
ただそれだけのことなのに、胸の奥がトクンとあたたかくなる。
「あと少し遅かったら、ちょっとまずかった」
ま、まずい? どういうことだろう――
問いかけようとして、ふと手首に感じた熱に視線を落とす。
いつの間にか、蒼真くんに掴まれていた。
「ここを出るぞ。感づかれる前にな」
「え、ち、ちょっとっ……!」
そう言い残すと、彼はくるりと背を向けて、ツカツカと歩き出してしまう。
慌てて追いかけながら、その背中をじっと見つめた。
――あの頃は、私のほうが背も高かったのに。
私のほうが手を引いて、先を歩いていたのに。
今は、まるで逆。
思い出とは違う光景を、今の私は見ている。
じゃあ、蒼真くんは――いったい、何を考えているんだろう。
もつれそうになる足を必死に動かして、
背中の先にある彼の表情を見ようとする。
でも、広くなったその背中に、すっぽりと隠れてしまって。
それに、掴まれた手だけが――
あの時と同じように、「離さないで」と言っているみたいで。
私は何も言えないまま、ただ一緒に、お店のドアをくぐった。
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