【 第8章 】
「んっ……」
目を開けると、見慣れない天井が広がっていた。
「……夢じゃ、なかった」
今は、何時なんだろう。
たぶん、もう朝だ。
何も身に着けないまま、眠ってしまっていたけど——
掛け布団と、上にかかっていたバスローブのおかげで風邪はひかずに済んだみたい。
それに、なんだかちょっと……いい匂いがする。
「起きたか」
声のした方を向くと、
おそろいのバスローブに身を包んだ蒼真くんが
コーヒーをすすっていた。
「あっ、う、うん……」
思わずバスローブの合わせ目を引き寄せて、体を隠す。
「その……おはよ」
顔を合わせるのが、なんだか恥ずかしくて。
布団に潜り込むようにして言った。
「あぁ。おはよう」
返ってきた言葉は、少しそっけなかった。
……一夜明けてしまえば、そういうものなんだろうか。
そっとバスローブの帯を締めて、布団の端に腰かける。
「……コーヒー、好きなの?」
「ん? あぁ。俺には必須だ」
「そう、なんだ……」
「お前も飲むか?」
「あ、うん。……付け合わせのミルク、あるかな?」
「えーと……あぁ、これか」
二つの小さな袋の封を開けて、蒼真くんがカップに入れてくれる。
お湯を注いで、粉が混ざり合う。くるくると渦を巻いて、茶色の液体ができあがっていく。
「小さい頃は、あんなに苦いの、苦手だったのになぁ……」
「ん? なにか言ったか?」
「ううん、なんでも」
そう言って受け取った、ミルク入りのコーヒーをすする。
……今のわたしは、まだブラックを上手く味わえない。
思えば、昨日ふたりで過ごした時間なんて、本当に一瞬だった。
あんなにも濃密だったのに、比較にならないくらい長く、彼とは離れていた。
彼が大きくなるのも、当然だ。
きっと、わたしが知らないことが、たくさんある。
「なぁ。そういえばだけどさ――」
どうしたら、その距離を埋められるんだろう。
体の距離だけ、一足飛びに近づいてしまった気がする。
「ご両親って、まだ地元に住んでるのか?」
「……え?」
り、両親……?
「あれ以来、会えずじまいだったから。
順番が逆になったけど、挨拶はしたほうがいい」
「え、えええっ!?」
「……あぁ、場合によっちゃ婿養子も検討しておくか。
必要な手続きも調べないと。教授らにもちゃんと伝えて――」
「ま、待って待って!」
一足どころか、十足飛びで話が進みそうになっている!
「そ、そのっ……なんで、いきなり、そんなっ……!」
「いきなり? もう14年と7ヶ月前のことは、“いきなり”なんて言わない」
じ、じゅうよねんと、ななかげつ……?
そんなの、いつの頃の話……まさか。
「ま、まさか……あの時の?」
「他に何かあったか?」
――間違いない。
わたしと蒼真くんが、幼い頃に交わした、あの約束。
夢の中のものだと思っていた記憶が、
現実として、彼の中にあったなんて。
「で、でも……わたしたち、あの時は、たしかまだ保育園っ……!」
「それが何か問題か?」
「いや、そうじゃないけどっ……!」
まずい。頭の中が混乱してくる。
こういう時は、いったん落ち着かないと――
手元のカップを取って、グイと飲み干す。
苦味が来ると思っていたけど――
「んわっ、にがっ!!」
「……それ、俺の方のカップだぞ」
ケホケホと咳き込む。
どうやったら、あんな真っ黒い液体を笑顔で飲めるの……。
「……全部、飲みやがった」
えっ、そんなに!?
「そそっかしいところは、変わんないな」
そう言って、蒼真くんはわたしのカップを口に運ぶ。
何気ない動作だったのに――
「……ん。意外とこういうのも、いいか」
気づいたときには遅かった。
……わたしたち、間接キスしてる。
いや、今さらかもしれないけど――でも!
まずいまずいまずいっ。
どんなに平静を装おうとしても、落ち着ける気がしない。
「……落ち着け白石。何が言いたいんだ」
「名前で呼んでって、あの時言ったでしょ!!」
変な方向から水を向けられたことで、
お腹の中に溜まっていた感情が、一気に爆発した。
「だって、蒼真くんは、わたしよりずっとすごくて、賢くて!
なんで……なんで、わたしなんかと“シて”くれたのか、分かんないよっ!」
蒼真くんがちょっと驚いた顔をしてるけど、
もう知ったこっちゃない。
「ずっと、ずっと忘れられなかった。
でも、今のわたしは……あの時のわたしじゃ、もうないんだよ……?」
あの頃のわたしは、
無鉄砲で、向こう見ずで、子供だった。
蒼真くんが突然いなくなったあの日。
理由も分からなくて、
大好きだった遊びも、ごはんも、全部イヤになって。
泣いて泣いて、何日もお父さんとお母さんを困らせた。
「なんで……あんなに大好きだった子が、いきなりいなくなっちゃうのか」
その理由だけでも、ただ知りたかった。
そう――わたしは、自分の周りすら見えてなかった。
そうして、大人になるにつれて少しずつ、ようやく。
“自分”のことが分かってきた。
わたしは、大したことのない人間だ。
飛びぬけて可愛くも賢くもない。
運動も、芸術も、勉強も――これといった取り柄なんて、何もない。
そうして大人になった今では、
子供だった頃の“根拠のない自信”すら、もうどこにも残ってない。
「わたしには……何にもないよ。
そんなわたしが、いいなんて――思えるわけ、ない……」
だからきっと——昨日のことは、
二人の間でほんの一瞬だけ起きた、気の迷い。
この部屋を出たら、昨日と同じ日常が戻ってくる。
そう、思っていた。
「……柚葉」
そう、優しく名前を呼ばれて――
わたしは、顔を上げた。
「俺は、ずっと周りが分かんなかった。
なんであんなふうに馬鹿できるんだろうって、
小さい頃から、思ってた」
ぽつり、と蒼真くんが話しはじめる。
その表情は、やっぱり今まで見たことのないものだった。
「そのせいで、仲間外れになるなんて……今思えば、当たり前のことなのにな。
それすら分からずに、一人で腐ってた」
もし、タイムスリップして、昔の彼を遠くから見たとしたら。
わたしも、こんな顔をするんだろうか。
「……なのに、柚葉。
お前だけは、俺に話しかけてくれたんだ」
……そう、だったかもしれない。
保育園の片隅で、一人遊びをしてた蒼真くん。
お勉強も、習い事も、たくさんできるすごい子だった。
だけど、うつむいて遊ぶその顔は、すごく寂しそうだった。
だから――
気づいてしまったから、声をかけずにはいられなかった。
「でも、親の都合で離れるしかなくて……。
どうしようって、ずっと考えて……考えて、出した結論だった」
あぁ……あの時から、
彼はわたしより、ずっと大人だったんだ。
「お前が言ってくれたあの言葉を、忘れないって決めた。
その言葉に見合う人間になるって決めて、ずっと頑張ってきた」
あんな約束、一つだけで。
どうして、ここまで来られたんだろう。
「……俺にだって、何もない。
お前がくれたものがなきゃ、こんなとこまで来れなかった」
「……そんなこと、ない。
きっと、蒼真くんなら、何にだってなれるよ」
「いや。俺にだって……なれるか分からないものがある」
「……なに?」
そんなの、あるわけない。
蒼真くんに、できないことなんて――
「――好きだ、柚葉」
……あるわけ、ないって、思っていたのに。
「もし、今のお前が、俺を受け入れてくれるなら――
俺と、結婚してほしい」
その言葉が、
ゆっくりと胸の奥に、しみこんでくる。
「っ――」
ぎゅっ、と手を握る。
今の気持ちを、なんて言葉にすればいいんだろう。
探すんだけど、言葉は浮かばなくて。
代わりに、涙ばっかり浮かんできてしまう。
手で拭っても、どんどんあふれてくる。
でも、その手に、蒼真くんがそっと手を重ねてくれた。
その温かさに、
ぽつりと出てきた、わたしの言葉は――
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